絵画とは、完成した瞬間に凍結するものではない。MORI-SHINのキャンバスには、放置と再開、混沌と沈黙、そして新たな筆触が何層にも折り重なる。佐世保で生まれ、音楽と絵画の両輪で表現を続けてきた彼の作品は、予定調和を拒み、時間そのものを素材として扱う。ここに並ぶ六点は、制作の苦闘から自己発掘を経て哲学的深度へと至る、ひとつの思索の旅路だ。
混沌の只中で
制作の途上で、予期せぬ座礁が起きることがある。調和を目指した筆は迷走し、色彩は埋もれ、イメージは混沌の只中に沈んでゆく。それは失敗ではなく、作家が自らの限界と向き合う痕跡だ。この章に並ぶ二点は、そうした過渡期の苦闘を色濃く刻んだキャンバスである。
では、その混沌がさらに加速し、黄金の時代すら落下してゆくとしたら──
混沌は終着点ではなく、次なる発見への入口でもある。埋もれたイメージが再び息を吹き返すとき、何が起きるのか。
初めて絵を買う方へ
抽象画の良さは、説明ではなく感覚で出会うこと。まずは部屋の壁を眺めて、そこに何があると心地よいかを考えましょう。サイズは家具のバランスで決め、色は既にある空間と対話するものを。予算は無理のない範囲で。最初の一枚は、理屈より、目が惹かれたものが正解です。
時間を発掘する
放置されたキャンバスに、数年後ふたたび筆を入れる。過去の自分が残した色の断片、フォルムの名残に、いまの視線を重ねてゆく。それは考古学にも似た作業だ。時間という地層を掘り起こし、埋もれていたイメージを再起動させる。ここには自己発掘としての制作がある。
火山湖に立つ鳥の静寂から一転、世界は無限に分割され始める──
過去と現在が交差するキャンバス上で、作家は自分自身と対話する。発掘された時間は、やがて思索の深度を呼び寄せる。
認識の深淵へ
認識とは、世界を切り取る欲望なのかもしれない。見ること、理解しようとすることそのものが、すでにひとつの欲望として機能する。表層を剥がせば深淵が現れ、その深淵もまた新たな表層に過ぎない。哲学的思索が結晶化したこの抽象世界では、見る者自身の認識が問われる。
欲望としての認識が、やがて表層そのものを巻き取ってゆく──
深淵と表層は反転し続け、境界は溶け合う。この問いに終わりはなく、だからこそキャンバスは静かに開かれたままだ。
混沌を受け入れ、時間を掘り起こし、認識の奥底へと降りてゆく。MORI-SHINの抽象画は、完結した世界というよりむしろ、問いを開き続ける装置として機能する。壁に迎え入れるとき、その問いはあなた自身の内側で新しい対話を始めるだろう。