見えるということは、何を意味するのだろう。豊吉雅昭の写真は、その問いを静かに投げかけてくる。システムエンジニアとして精緻なコードを書いていた彼は、緑内障による視野欠損の進行によって、技術者としての道を断念せざるを得なくなった。2010年、写真家 所幸則氏に師事し、カメラを手にする。以後も病は進行し、4度の手術を経て、現在では左目にチューブとプレートが埋め込まれている。視野の大半を失いながらも、いや、失ったからこそ見えてくるものがある。彼のレンズが切り取るのは、光と闇の境界に立つ人間の姿だ。
作品紹介
モノクロームの画面に、ひとりの人物が佇んでいる。背景は暗く沈み、光は控えめに、しかし確かに被写体を浮かび上がらせる。この静謐な緊張感は、見ることと見られることの境界線上で生まれる。豊吉が選ぶのは、華やかさではなく、削ぎ落とされた先にある本質。視野を失いながら写真を撮るという行為は、逆説的に「何を写すべきか」という問いへの答えを研ぎ澄ませていく。
光と影の配分、被写体との距離、そのすべてが計算ではなく、身体の記憶から生まれているように感じられる。失われた視界の中で、彼は何を見ているのだろう。
視力を失うことは、視界を失うことではない。豊吉雅昭の作品は、そのことを静かに、しかし力強く物語っている。彼の写真に映るのは、私たち自身の姿かもしれない。見えているつもりで見過ごしているもの、失って初めて気づく輪郭。一枚の写真が、あなたの部屋に新しい問いをもたらすかもしれない。作品との出会いが、日常の視界を少しだけ変えてくれることを願って。