一枚の銅版に針を走らせ、酸で腐蝕させ、インクを詰めて刷る。その工程は中世ヨーロッパから数百年、ほとんど変わっていない。小野寺 美帆が選んだ銅版画という表現は、情報が光速で駆け抜ける現代において、まったく逆の速度で進む。彼女の作品に登場するのは、黒い尾を持つ猫と、本に囲まれた静かな空間。急がず、繰り返され、少しずつ彩りを増していくその世界は、見る者の時間感覚を静かに問いかけてくる。
小さな物語が始まるとき
本棚の前に座る黒猫。尾はゆるやかに曲がり、周囲には開かれた本が静かに散らばっている。「Black Tail Books 1」が描くのは、物語が始まる直前の、静止した時間だ。銅版画特有の繊細な線は、猫の毛並みや本の質感を丁寧にすくい上げる。モノクロームの世界に、手彩色の赤が一点だけ灯る。その色は装飾ではなく、物語の入口を示す印のようだ。
一枚の版に刻まれた猫と本。その静けさのなかに、これから語られる何かが、確かに息づいている。
初めて絵を買う方へ
銅版画は一枚ずつ丁寧に刷られるため、同じ作品でも表情が微妙に異なります。最初の一枚は、あなたの部屋で毎日目にしたときに心がほっと落ち着く作品を選んでみてください。サイズは壁のスペースより少し小さめを目安に。時間をかけて作られた作品との出会いを、焦らず楽しむことが大切です。
繰り返される日常の深み
同じ黒猫、同じ本棚。けれど版を重ねるたび、物語は少しずつ表情を変える。「Black Tail Books 2」では猫の姿勢が微妙に動き、手彩色の赤は別の場所へ移る。そして「3」では、さらに異なる瞬間が刻まれる。銅版画という技法が本質的に持つ「反復」と「ズレ」。同じ版から刷られながら、一枚として同じでない時間の層が、ここには折り重なっている。
では、同じモチーフが次の版でどう変化するのか。
繰り返すほどに深まる日常。赤い色が場所を変えるたび、見る者もまた、同じ景色の別の温度に触れる。
三枚の版画が並ぶとき、そこには単なる連作以上の時間の積層が見える。一枚ずつ異なる赤の手彩色は、同じ日常が同じではないことを、静かに証明している。銅版画が持つ「遅さ」は、速度を競う現代においてこそ、特別な意味を帯びる。小野寺 美帆の作品は、壁に掛けられたその日から、あなたの部屋の時間をほんの少し、ゆるやかに変えていくだろう。